翻訳のヒント[バックナンバー]

2020年6月 翻訳のヒント(和訳) - サイクリック環

 化学系の明細書には、複数の官能基が合体して作り得る環構造について記載されていることがあります。ある和訳のケースで、原文に環構造の一例として "an alicyclic or heterocyclic ring" という表現がありました。この表現は会話レベルなら不自然に感じませんが、よく見ると環状を表す形容詞(cyclic)+環を表す名詞(ring)の重複表現です。和訳上「馬から落ちて落馬」式の表現を回避したいのは当然ですが、用語としての確立度合や用語間のバランスをも考えなくてはならないケースでした。具体的に説明します。

 alicyclicheterocyclic も環のタイプを表す形容詞でそれぞれ「脂環式」、「複素環式」を意味し、通常 compound などを後に伴って「脂環式化合物」、「複素環式化合物」のように使われます。ところが、今回は compound でなく ring が後続しますので、機械的に訳せば必ず「環」の意味が重複します。

 名詞である heterocycle は「複素環」を意味し、化学分野で一般に使われる用語です。従って、heterocyclic ring を意味上 heterocycle と等価と考えれば「複素環」と訳すことは可能と思われます。一方、alicycle という名詞は存在こそすれ使用頻度に関しては heterocycle にはるかに及びません。従って、alicyclic ringalicycle と等価と考えたとしても、「脂環」を単独で名詞として使うことはあまりなく、「脂環式化合物」のように「式」がついて形容詞の一部として使われることが普通です。「複素環」と「脂環」を並べるにはハードルは高いと思われます。

 そこで、色々な立場からの候補訳語と特徴を次に挙げてみます。

1.「アリサイクリック環又はヘテロサイクリック環」

―カタカナ書きのサイクリックと漢字の環を使って重複感を低減。両環の用語の構成が同じでバランスは良い。

2.「脂環又は複素環」

―シンプルでわかりやすい。当業者なら容易に理解可能。但し「複素環」ほど一般的でない「脂環」の初出箇所には(alicyclic ring)との注を付加しておきたい。

3.「脂環式構造又は複素環式構造」「脂環構造又は複素環構造」

―技術的には最も正確。しかし原文に「構造」に対する用語が存在しないので、訳者の意図的追加が許容されることが必要となる。

 機械的に訳した「脂環式環」や「複素環式環」は誤訳とまでは言えないものの、音と見栄えがよくないので候補とするには気が引けます。上のような候補訳語の選択は、翻訳対象の翻訳自由度(忠実度)などにも依存するのでケースバイケースでの判断になります。今回は技術内容以上に和訳としての難しさを感じる例をご紹介しました。

もう一つは、岡本訳の「脂環式又は複素環式環」を最終的に訳者コメントを付けた上で、「脂環又は複素環」としましたので、報告いたします。

> heterocyclic ring を「複素環」と訳すことには問題ありませんが、「脂環」に関しては一般的化学用語でないため元英文を()付きで挿入しました。
> カナ書きで「~サイクリック環」や「~環式環」等の訳では、やはり重複感が避けられません。
> 今回のようなケースでは、どの訳語が100%正しいかは決められませんので、あくまで回避的な対応をしたまでです。
>
> さて、別な観点からですが、仮に an alcyclic or heterocyclic ring を和訳する場合、
> 「脂環式又は複素環式環」や「アリサイクリック又はヘテロサイクリック環」でも当業者はわかりますが、前者に ring を意図的に足して
> 「脂環式環又は複素環式環」や「アリサイクリック環又はヘテロサイクリック環」とする方が理解が容易となります。これは、「環」が訳語の語順上最後に登場するためです。



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